外国人が驚く日本の文化といえば、おみやげ、お辞儀、お酌、麵をすする、温泉、おもてなし、わびさびなど。
いろいろとありますが、京都の家の構成、建築材料や、風情のある街並み、伝統的な木造家屋も特徴的で日本の文化の1つです。
京町家について、そしてなぜうなぎの寝床と呼ばれているのか、歴史についても調べたので、これまで京都のなぜ?を解消できるのではと思います。
よかったら最後まで読んでいってください。
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京都の家の特徴と京町家の良いところは?
京都の家の特徴として、往来の人とのコミュニケーションを図るため、住宅や小さなお店・工房のような建物などは隣と近接して軒を連ねてます。
昔からある商店街のような並びですが、独特な木造建築により歴史を感じさせる風景となっています。
構造は伝統の「木造軸組構法」であり、礎石(そせき)に石が使われ、壁は漆喰塗り、釘を使わず継手やほぞを用いて建てられています。
京町家(きょうまちや)の良いところは、奥庭や通り庭が作られており、部屋にいながら季節を感じさせる風景を楽しめるようになっています。
庭には植え込みや沓脱石(くつぬぎいし)が配置され、ツバキやマキ、カシなどの常緑樹や松や紅葉などの落葉樹が植えられ、四季折々の表情を感じながら時を刻んでいきます。
通り庭は、通りから奥庭まで貫いているため靴を脱がずに通り抜けられるようになっており、人の出入りや荷物の運搬が容易にできるよう考えられています。
また、木造建築のため通気性が良く、冬に暖房をつけていても結露が発生しにくくカビを抑えられる環境となっています。
京町家の構成は?
次のような造りで構成されています。
通り庇(とおりひさし)
表に面した通りに向かって伸びる庇。
庇の下は通り道になっていて、「ばったり床几(しょうぎ)」を設置するスペースとしても活用しています。
一文字瓦(いちもんじかわら)
軒先にある瓦の先端をまっすぐ平らにすることで、統一感のある美しい街並みを生み出しています。
駒寄せ(こまよせ)
人や家畜を家へ近づけさせないための柵。
昔は家畜をつなぐためにも利用されていました。また、軒下の土地が確保でき、家主が自由に使えるスペースにもなっています。
虫籠窓(むしこまど)
目の細かい縦の格子状になっていて、天井を低く設計した2階の窓のこと。
換気や自然光を取り入れる目的があります。
また、表の道を通る人々を見下ろさないためともいわれています。虫籠(むしかご)に似ていることもあり、「虫籠窓」や「虫子窓」と呼ばれることもあります。
大戸・くぐり戸(おおど・くぐりど)
大きな荷物を運ぶときは大戸を使い、夜間や人が出入りするときは大戸の一部になっているくぐり戸を使います。
使い分けることによって昼夜の温度差を減らし、室内が一定の温度を保つよう工夫されています。
ばったり床几(ばったりしょうぎ)
軒下に設置した収納可能な折り畳み式の台。
壁に寄せて折りたたんだり、使うときに脚を起こして野菜を干したり、休憩用の椅子として活用されています。
格子
外から家の中を見えにくくするための柵。
商売の種類によって格子のデザインが変わり、「糸屋格子」、「麩屋格子」、「酒屋格子」などがあります。
京町家に使われている建築材料は?
京町家を建築するための材料は、部位により材質を変えているようです。
・土台 → 栗・ヒバ・ヒノキ
・柱 → ヒノキ・杉・松
・荒野地 → 杉
・化粧野地 → 杉・ヒノキ
・通り柱 → ヒノキ
・側柱 → 杉
・桁・梁 → 松
・大引・モヤ・たるき → 杉
・敷居 → 松・桜
・鴨居・天井廻り縁 → 杉
京町家の建築は、木以外にも竹・紙・土・石などの自然の素材が使われています。
京都の家はなぜうなぎの寝床と呼ばれているの?
「うなぎの寝床」という言葉をご存じですか?
うなぎは岩の隙間など狭くて細いところを好むため、竹筒を住処に見立てて罠をしかける漁があります。
このようなうなぎの特性から、間口が狭く細長い間取りの住宅を表現する言葉として「うなぎの寝床」が生まれました。
なぜ、京町家の造りは「うなぎの寝床」となっているのでしょう?
それは江戸時代までさかのぼります。
江戸時代の京都では、住宅の間口の広さで税金が決められていたようです。
これを「間口税」といいます。
住宅の間口3間(約5.4m)ごとに税金をかけたため、京都で商売をしていた人たちは節税対策として間口を極端に狭くしました。
それから奥行きの長い住宅を建てるようになったそうです。
なぜ京都は昔の文化が今も残っているの?
いくつか理由があるのでまとめたいと思います。
歴史的観点
・平安時代からの都の名残があり、寺や神社などの古い建築物が多い。
・戦争中も文化遺産に対して攻撃が少なかった。
法律的観点
・文化財保護法や古都保存法が守られている。
・京都市自体が街並みを残す努力をしている。
住民の考え方
・古き良き文化を大切にしたいと思う人が多かった。
・世界的に京都の文化や生活の工夫を知ってほしかった。
これらの観点と考え方から、京都は昔の文化が現在も残っています。
京町家のデメリットは?
京町家は木造住宅ではあるのですが、建築基準法以前に建築されたものが多いため、適切に耐震性を判断することができないようです。
古い建物なので床がもろくなっていたり、雨漏りがしたりなどがあり修繕する箇所が多くなる可能性もあります。
また、屋根裏や壁に断熱材をいれなければならないため、いろいろと費用がかかります。
京都はなぜ道がまっすぐになっているの?なぜ碁盤の目のようになっている?
京都があったところには、平安京がありました。
平安京は「条坊制」という構造により、東西の通りと南北の通りが垂直に交わり「碁盤の目」を描いているように見えます。
条坊制とは、中国が発祥のようです。
東西南北を直線的に街路で区切ることが最も効率が良いという考え方とされています。
・道を整理することにより、軍隊の移動が楽になる。
・区画整理をすることで民衆の管理がしやすくなる。
という理由がありました。
京町家の歴史について
京町家のはじまりは、平安時代までさかのぼります。
創建当初の平安京は、「碁盤の目」になっており、朱雀大路を境に「左京」と「右京」という地区に分けられ、そこに東市と西市という繁華街がありました。
その繁華街で、「店屋(まちや)」という座って物を売るための小屋が京町家の原型とされているようです。
平安時代後期になると、今の祇園祭の元となる「祇園御霊会」が始まります。
店屋と道路の間に桟敷(さじき)と呼ばれる塀のような仮設物があり、ここから祭事の練り歩く行列を見物していました。
この頃から、建物を道に面して建てるようになり、京町家の街並みに近づいてきたといわれています。
平安時代後期以降、道に面して建物を建てるようになってから「両側町」という町の区画のようなものが成立しました。
現在の京都でもこの形が使われていて、通りを中心に両側の建物がひとつの町として形成されたものです。
室町時代に入り、街の治安が悪化し、それぞれの集落で自衛をしなければいけない状況になりました。
集落を取り囲む壁や土居、堀、木戸門などの防衛策を考え、これと同時に「格子」を取り付ける文化が生まれました。
安土・桃山時代、建材の需要と建築技術の発展、住宅の企画化が飛躍的に進み、防災を意識し始めたことから桟瓦(さんがわら)が発明され、住宅に屋根瓦が普及されるようになりました。
18世紀頃には、建物の外観も統一され始め、「厨子二階」、「虫籠窓」、「出格子」など、現在の京都の街並みに近づいてきました。
明治から昭和初期にかけて、京都にも西洋文化が進み、木造の町家にも総二階の建物が増え始めました。
ガスや電気が普及されるようになり生活様式が一変していくなかで、京町家の風景と文化は衰退していきました。
京町家が取り壊しされているのはなぜ?
戦後から現在、伝統構法の危機が訪れ始めています。
昭和25年、「建築基準法」が制定されたことにより、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低限の基準を定めたため、従来の「伝統構法」は基準を満たしていないと判断されました。
現在は「在来工法」が主流となり、建物は高層化が進み、マンションや駐車場が増えていく一方で京町家はどんどん減少していったのです。
京町家を未来へ!
「京町家を守りたい!残したい!」という声が多く集い始め、街並みを保存しようと活動する市民団体が結成されました。
平成10年 京都市は、京町家の減少を食い止めるため施策の立案に取り掛かります。
平成20年 京都市は「景観法」の施行をきっかけに景観条例を発令。 高層化が進んでいる中心部にも厳しい建築規制が敷かれることとなりました。
平成20年~22年 京都市が街づくり調査を実施。残存する京町家は、約47,000件と報告されています。
文化を守りたい人々や国内の観光客、外国人観光客の力により京町家の評価が見直される形となりました。
古い京町家の修繕を行い、復興を目標に進み始めています。
京都の家の構成、建築材料や特徴を教えます!のまとめ
いかがでしたでしょうか?
京都といえばお寺や仏像などに目をむけてしまいがちですが、その観光地に辿り着くまでの京町家も、深い歴史のある建造物でした。
ここで構造や意味を理解したことにより、これから京都へ行く方は違う見方ができて楽しみも増えていきますね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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